「彦嶽宮縁起」並びに伝説によれば
大昔は、震岳のことを踏寄峠(ふみよせがとうげ)と云った。
其故は、彦岳と不動岩の首引きの際二人の踏み寄せによって出来た山の意であった。
天皇が、土蜘蛛津頬を誅し、菊池川を上って山鹿郡大宮の地に行在所を設けられ、この地方を巡狩されるに当たり、或る日津留近津宮(ちかづのみや)に立たれた。
現在の池田橋の上手、段ボール会社の前一帯が、小字近津宮と呼ぶ。お野立所は有働家墓地の南数十米の所だったと伝えられ五十年くらい前までは小高い岡に「近津宮行在所」の銘碑があった。余談になるが、この時天皇一行をむかえたので、迎田氏と呼んだと言うが、察するに部落の代表か或いは接待役ではなかっただろうか。
次いで、天皇は古江正玄(古江、一森の祖と云う)の案内で踏寄峠にお上りになった。以来この山を高天山と呼んだようである。天皇のお上りになった高い山の意だったろう。
後日、宇土の木原山に逃げていた津頬の残党が勢力を回復して逆襲をしてくると、天皇は軍を、現在の鹿央町高山、浦山口にすすめられ防戦されたが、背水の陣も破れ遂に茂賀浦(志々岐から菊池までは一面の湖沼であったと云う)を渡って、大宮、白石、不都原と転戦され、遂に高天山に籠城されることになった。
籠城に最も困られたのは水であった。天皇が須訪の宮に水を乞われると、山の東南の地に清水が湧出した。(小坂の宮には須訪宮を合祀してあると云う)
更に、八代の妙見宮に戦勝の祈願をこめられると、三つの火の玉が南の空から飛来して、二つは山鹿大宮の杉にかかり、一つは高天山上に来り敵陣を照明する。七月十六日の夜半であった。
賊将之を卜して曰く「之援軍の来る報せならん、速やかに勝を決すべし、然らずんば我腹背に敵を受けん」と。翌朝未明賊将は全軍に総攻撃の命を下す。正に蟻の如く賊軍四方より高天山の頂上めがけてよじ登る。
天皇この時、一向に天神地祇の加護を祈念されると、日子岳(彦岳)の頂上に、一人の白覆面白馬の士が現れ「我はこの山の鬼神なり」と、弓に白羽の矢つがえ満月の如くひきしぼる。その矢ひょうと放てば、高天山の七合目ばかりにっはっしと立つ。同時に高天山は全山大揺れ、木は倒れ岩は落つ。賊兵折り重なって谷間谷間に転がり落つ。
天皇の軍、いざ此の時とばかり山上から攻め下れば、大勢にわかに逆転、瞬時にして勝敗決す。賊将命からがら一人日向の国へ逃げのびたと云う。
天皇は神恩を謝し、高天山に八神殿を祀り(後千田の八島、下吉田宮にまつられていると云う)彦岳に三宮を祀り、従者吉田某をこの地に止め、神事に当たらせ給うた。下宮の吉田家はその後裔と伝えられ兼隆氏の八十一代に及ぶと云う。
阿蘇へ向かって天皇が出立された後で、土地の人々は高天山のことを揺ヶ嶽(ゆるぎがたけ)と呼ぶようになった。
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